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有馬家の歴史

有馬氏久留米へ

有馬氏は、村上源氏の流れを汲み、室町時代に播磨守護職赤松則祐の子義祐が摂津国有馬郡を領し、有馬を名字としたことに始まります。のちに久留米藩主となる有馬家は、義祐より七代後の則頼を藩祖とします。

則頼は、天文2年(1533)に播磨国三木郡満田城に生まれました。父重則が戦国の争乱で討死、不遇の中で僧体となりますが、羽柴(豊臣)秀吉に招かれ、軍功によって立身します。

天正8年(1580)、則頼は織田信長の命による秀吉の毛利攻めに参加、戦功として播磨国淡河3200石を受け、のち1万5000 石に加増されます。

子の豊氏もまた、秀吉に仕え、始め3000 石、文禄3年(1594)に従五位下・玄蕃頭に任ぜられ、同4年には3万石を与えられ、遠江国横須賀城(現・静岡県掛川市)に入りました。

慶長3年(1598)に秀吉が没すると、父子とも豊臣家大老筆頭の徳川家康に従っていきます。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、則頼・豊氏父子は家康率いる東軍に属し、石田三成ら西軍に勝利しました。恩賞として、則頼は摂津国有馬郡のうちに2万石を得、三田城を居城とし、豊氏は加増されて6万石を得、丹波国福知山城に入ります。同7年に則頼が没すると、その遺領も継承し合わせて8万石を領しました。同8年2月に家康が征夷大将軍に就任、以来、豊氏ら諸大名との主従関係が形成されていくこととなります。

豊氏は、慶長19 年(1614)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣に徳川方として参加し、戦功をあげました。

元和6年(1620)に筑後一国を領した田中忠政に後継ぎが無く断絶すると、豊氏は北筑後21万石を与えられ、翌年3月久留米城に入ります。なお、南筑後10 万石余は、立花宗茂に与えられました。

以来、明治維新にいたる約250年の間、有馬家は徳川幕府の下、久留米藩を治めていくこととなります。

初代藩主・豊氏の動き

久留米城の歴史

久留米城は西と北を筑後川、東を沼地に囲まれた丘という地形を利用した城です。豊臣秀吉の頃は小早川(毛利)秀包(ひでかね)の城、関ヶ原の合戦後は田中吉政が柳川を主城、久留米を支城としました。

元和7年(1621)、豊氏はこの城を基に整備をはじめ、4代頼元(よりもと)の頃まで約70年をかけ、東は現久留米大学病院の西半分、南は現久留米市役所付近まで広がる城を完成させたのです。

本丸と本丸御殿

久留米城の本丸は、2階建の長い櫓でぐるりととり囲み、隅々には7つの櫓が建てられていました。中でも巽櫓は3層で一番大きく、天守の役目をはたしていました。

本丸の御殿は、三潴(みずま)、御井(みい)、御原(みはら)、山本、竹野(たけの)、生葉(いくは)、上妻(こうづま)、下妻(しもつま)の筑後国8郡を治める久留米藩の中心として、江戸の上屋敷と協力しながら政治が行われたのです。

久留米城本丸絵図(篠山神社 蔵)

歴代の藩主たち

系図

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